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なるたけとりはらいたい

by Azusa Yamamoto

誰かにわたしのことを紹介してもらうとき、「ライターのヤマモトさんです」などと言われると、なんだかさびしい気持ちになる。無理解にさらされ、悔しさや哀しさがふつふつと湧くような感覚。ほんと、大げさだけど。いや、こんなことで理解・無理解なんてことを言うから「アズサはキムズ川」(=気難しいとイギリス・オックスフォードやロンドンを流れるテムズ川をかけたことばあそび)なんて言われるんだ。でも、密かに傷ついているのは確かなのだ。

文章を書く人だからライター。そうですとも、いまもこうして書いている。

「実は……文章だけじゃないんすよ! 編集もやっていて、渋谷のスナックではチーママもやっていて、料理もするし、庭仕事も勉強中、あとはペンキを塗るくらいの大工仕事だってやるんですよ!」というわたしを形成している大切なパーツがひとつまたひとつと落ちていくような感覚? いや、自己アピールがしたいわけではないな、ちがうな。文章を書く人=ライターっていう単純明快な英訳が嫌だ? ちがうな、これも。

……きっとわたしは「肩書き」が嫌いなのだ。その人を「これ!!」と断言・限定・特定してしまえるそれが苦手のようだ。


先日、新潟駅にほど近い『沼垂テラス商店街』(ぬったり、と読みます)を、女としてのたたずまいも仕事ぶりやその生き方も尊敬するシナダさんとぶらぶらしていたときのこと(シナダさんとの話はまたいつか聞いてください)

ここは、すぐそこの港に停泊した北前船のあんちゃんや、近隣の工場に勤務したおいちゃんたちの“仕事上がりの一杯”を支えてきた長屋スタイルの市場が、味わい深いトタンの錆はそのままに、カフェや雑貨屋、古道具店などに生まれ変わった場所だ。そんなカラフルな商店街のなかに、『シロツメ舎』はあった。「こぎん刺し」という青森・津軽で発展した刺繍や大小さまざまなビーズでアクセサリーをつくる女店主・タナカさんが迎えてくれた。この前の日に初めてお会いしたのだけれど、聞くとこちらもつられて笑顔になってしまう笑い声とともに、その白い手にパールのように光るビーズの指輪がタナカさんをカタチづくっていた。この人にまた会えたことが嬉しくて、たちまち話に花が咲いた。

タナカさんは、その白い手に針をもちさまざまな美しいものを生み出していたが、こぎん刺しに出合ったとき「ぞわぞわ」としたらしい。ただちに資料や材料を取り寄せ、ひと針刺したときに「ピーン!」と。そこから「ずずずー」っとのめり込んでいくことになる。

ところが、だ。こぎん刺しの人気や話題が高まると同時に、歴史ある刺し子技法ゆえに、「これはこぎん刺しで、これはこぎん刺しではない」という論争や、「え? 青森出身じゃないんですか? ふーん……」という厭味な余韻がタナカさんの元にまで届くようになって、つくり手としての気持ちが下がった。

「あまのじゃくなんでしょうね。『これ!』って、こぎん刺し一本でいったほうがいい気もするんだけど、人気になってくると、わたしは違うって思っちゃう。もともと自分が身につけるものとしてビーズや刺繍をしていたので、ルールみたいなものに縛られるのも嫌なんです。一気に楽しくなくなっちゃう」

そんなときに出合ったのが、津軽のこぎん刺しを長く守ってきたひとの「こぎん刺しは自由である!」ということば。このことばがあるから、タナカさんはいまのペースでこぎん刺しを続けていられると言う。わたしも気持ちをふっと軽くしてもらった。

「専門性を身につけなくちゃ、とは思うんですけどね」と言うタナカさんに、気がついたら、肩書きの話をしていた。


なるたけ、とりはらいたい。専門性も、肩書きも、ジャンルも、カテゴリーも、関係性も。わたしとあなたの間の境界線になりうるものはなくしていきたい。ふわふわしていたい。

役割や専門的なとっかかりができていったとしても、それはひとまず置いておいて。つまり、何ものでもない自分で人に接する。そこに何が生まれるか? それはきっと、言語ではなくて、じんわりと沸いてくる熱量みたいなものだと思う。ともかく、それを感じて味わえる器だけはもっていたい。いまのわたしにどうしても肩書きが必要だと言うなら、「器拭き(見習い)」だ。


Azusa Yamamoto
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